2015/12/17

課題に付随する存在


つい先日、ゲートが閉まるまでの残りわずかの週末に瑞牆ボルダーの十六夜(初段)の左手にある十五夜(二段)を登りに行った日のことである。

道路沿いの駐車場からアプローチし目的の岩を目指していた時、ふと以前登った水蛭子(三段)という課題の横を通り過ぎようとした時にある違和感に気付いた。

居ないのだ。

その課題において、登攀の困難さと登攀そのものをより深いものにし、課題を克服した時にはより一層の充足感を与えてくれたその存在が。
あまりの衝撃に怒りを通り越し、おそらく一生理解しあえないであろう者達がここ瑞牆にも訪れ、そして課題を破壊して貶めているという事実に大きな失望を覚え、落胆した。
写真はその存在がまだそこに居た2014年5月の写真である。
目を疑い、周りを見渡すと、あまりに不自然な場所に赤裸々な姿を曝け、その存在は悲しげに横たわっていた。

なぜクライミングにおいて、その岩のラインであったり、ルートが"課題"と呼ばれるのか。
ここ最近騒動となっているチッピングの問題と、この下地を極端に変化させてしまうという問題の根底は同じ場所にあると私は思う。
それが何なのかこの場で深く語ったところで真意を伝えるには限界を感じるが、今までその内容に関して腑に落ちなかった部分の残っていた室井氏が過去にロクスノで投げかけた「下地に問われるもの」という記事の真意が、自分の身に起きてようやく解せたような気がした。

「クライミングとは生活技術も含め、山頂まで到る行為の全てで、決して地面から終了点まで到ることではない。だからこそ、山頂に到るためのスタイルや倫理へのこだわりは、クライミングの本質に関わる問題である」
これはある尊敬するクライマーの言葉を拝借したものだが、自戒も込めてここに残そうと思う。

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