先週のグランドフォールのトラウマを振り切り、恐ろしいランナウトにも耐え、ようやくそのルートの核心部を抜けることができた。
目の前には終了点とされるチェーン付きのボルトアンカーがあり、そのすぐ右方、3手延ばした先には両手を離せるほどの安定したテラスがある。
右脇から延びている別のクラックを経て、そのテラスに移れば本来目的としていた白髪鬼の完登である。
しかし、いま私が両手を捻じ込んでいる指寸ほどのそのクラックは、そこで途切れることなく岩の頂点まで続いていた。
白髪鬼というルートは、現在では壁の途中にあるボルトアンカーを終了点としたルートとしてほぼ定着している。
また、そのボルトアンカーから3手ほど右方に手を進めると、別のクラックを経て両手を離せるほどの安定したテラスに移れる。
その終了点の位置も、安定したテラスの存在も、そこでピッチを区切り、ルートの終了点とするには実に合理的で、形状の弱点をついたごく自然な終了点である。
しかし、ただ一点、不自然な点があるとすれば、それまで登ってきたクラックから脱線し、別のクラックに移って終了となることであった。
実際、白髪鬼の指寸にも満たないそのクラックは、そのボルトアンカー付近で途切れることなく、そのままさらに左方に延び、岩壁中央のクラック(テレパシー/5.10+)に繋がっている。
歴史を紐解くと、そのボルトアンカーは保科氏によるピンクポイント初登、吉田氏の第2登の後に打たれたもので、それまで白髪鬼のビレイ点は不安定な岩が重なり合ったブッシュからロープを延ばし細い立木に設けた、ビレイ点としては些か頼りないものであった。
そこには今でも当時使われていたであろう苔むしたロープが垂れ、その名残が残っている。
そして、それまでピンクポイントに留まっていた白髪鬼は、多少なりともそのボルトアンカーの一助によって、マスターリードレッドポイントというより良いスタイルで完成された。
しかし、そのボルトアンカーにぶら下がる度に、「なぜ私はトラッドルートをトライしているはずなのにボルトにぶら下がっているんだ?」という疑問が脳裏に浮かんだ。
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Old anchor
Photo:Kenichi Moriyama
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・グランドアップ
当初の目的は「白髪鬼をより良いスタイルでレッドポイントする」という発想の基で今回のクライミングは始まった。
まずはグランドアップでのトライだった。
昨年と今シーズン、一日づつ計2日間をこのスタイルでトライし、実際にグランドアップによるクライミングで白髪鬼の終了点には至った。
しかし、いざレッドポイントとなると複雑さが増した。特にギアの回収という問題であった。
レッドポイントトライで、もし途中でフォールした場合、ギアを回収するにはそのまま終了点まで再度登ってロワーダウンしながら回収するか、クライムダウンしながら回収するか、もしくはパートナーに回収に行ってもらうかだった。
しかし、フォールの度に「ギア回収のためのクライミング」を繰り返すうちに、当初のグランドアップの精神、未知なる一手への駆け引きという冒険性はもはや薄れていってしまっている感覚を覚えた。
そして、そもそもオンサイトでない限り、トラッドルートでのグランドアップでの”レッドポイント”に深い意義があるのか、たとえ達成したとしてもそれは単なる「グランドアップで登った」という形式上のタイトルであって、果たして自分の求めるものはそれなのか、という疑問が生まれた。
・ロープソロ
しかし、よりよいスタイルで白髪鬼は登り切りたい、という思いは消えず、そこで選択したのがロープソロだった。
そもそも白髪鬼というルートの歴史は、保科雅則氏や中嶋徹氏が実践してきたように、その節目毎により良いスタイルで登られてきたというクライミングにおける冒険性の象徴のようなルートで、初登の保科雅則氏が残した、冒険に対する格言。新たなスタイルを目指すチャレンジ精神と精神性の不滅。
とにかく、それをこのルートで実践し、理解したかった。
しかしやはり、ロープソロスタイルにおいても、その複雑さは付き纏った。
そもそも自分のロープソロシステムでは湯川の柔らかい岩質で行うトラッドルートには不向きであることも知り、実際、フォール時の衝撃にプロテクションが耐えれず、極めていたカムが3本すっぽ抜けてグランドフォールという痛手も負った。
ロープソロを選択した理由は、実は他にロープソロでやりたい(ロープソロで登ることで大きな利点が得られるルートの登攀)の実験的な目的もあったのだが、いざ蓋を開けてみると手段としてのロープソロシステムの利点・欠点と今回のルートの性質はそもそも全く噛み合っていなかったことを知った。
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Rope solo on Hakuhatsuki
Photo:Kenichi Moriyama |
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そのスタイルの選択に苦悩し、冒険性の追求を目的としながら、スタイルという手段そのものが目的化したとたん、複雑さを纏い、クライミングのシンプルさを損なった結果、冒険性にも霞がかかってしまっていることに気がついた。
その苦悩のうちは、まるで一寸先も視えない霧雨の中にいるような感覚だった。
つづく